いじめの構造 ~なぜ人が怪物になるのか~
https://iss.ndl.go.jp/thumbnail/9784062879842.jpg
「いじめ」というより、「劣悪な環境に陥る構造」について知りたくて、けっこう前から読んだ。
小中高を振り返ると、「異様だった」と思う部分が多い、というのもある。
何が異様だったか?
教師の言うことが絶対
形の上で従うだけではなくて、自分の心自体を捻じ曲げられていた感覚がある。(教師に言われる前から、教師の考え方で行動するようなイメージ)
スクールカースト上位の人と、仲良くなりたかったという思い。
学校という場がないとそうでもない。
よく分からないルールの遵守・遵守ができてしまう治外法権感。
高校では制帽があり、バス通学なのに持っていかなければならなかった。
好きかどうかよく分からないことも、周りが「そう」なら好きでなけばならなかった。
試してみるくらいの気持ちなら悪いこととは限らないかも。
ただ、スクールカーストの上の人が言うと、「好きになるべき」度合いは高かったように思う。(そう錯覚していた)
読んでみての自分なりのまとめ
「逃げられない」集団の中(「ここ」でしか生きられない、とそう思ってしまうような状況)で生きるとき、人は自分の立ち位置を奪取、あるいは守るために、狡猾に振る舞うのではないだろうか。
さらに、集団の中で特権的地位を得た人の中には「他者コントロールによる全能」(何かしらの全能)を得ようとする者がおり、その人たちにより「いじめ」のような凶行が起きる。
「ここでしか生きられない」と思っている周りの人は、逆らえば自分の地位が危うくなるので凶行を止められない。
「ここでしか生きられない」人にとって現状の地位は死活問題なので、捨ててまで逆らおうとは思わない。割に合わない。
なんだったら、「特権的地位」の人に加担して、自分も「他者コントロールによる全能」を得ようとする。
「逃げられない」集団
小中高の学校
他に転職先がない職場(そう思わざるえないような環境)
IT業界以外は、割とあると思う。
ママ友とか?(偏見)
たとえば、コップを壁にたたきつけて粉々に砕いても、そこには他者コントロールの手応えはない。
それに対して他者は、自己とは別の意志を有しており、独自の世界を生きている他者である。
だからこそ、いじめ加害者は、他者の運命あるいは人間存在そのものを、自己の手のうちで思いどおりにコントロールすることによって、全能のパワーを求める。
思いどおりにならないはずの他者を、だからこそ、思いどおりにするのである。これを、他者コントロールによる全能と呼ぼう。 (Japanese Edition) (p.65). Kindle 版.
「いじめ」についてここまで調査されていて構造まで分かっているのに、現代社会にこの本の内容が生かせていないのは、もったいなく思った。
疑問<自分の中で答えは出ていない>)学校は「逃げられる」環境になるべきか?
いじめをなくすなら、絶対に「逃げられる」「嫌いな人と無理に仲良くならなくていい(嫌いな人が存在していい)」構造であるべき。
本の中で挙げられていた初期の具体的な対策には「学級制度(クラス)」を廃止する、というのがあった。
悪口、「しかと」「くすくす笑い」といった、コミュニケーション操作系のいじめ に対処できる手段。
学級や学校への囲い込みを廃止し、出会いに関する広い選択肢と十分なアクセス可能性を有する生活圏で、若い人たちが自由に交友関係を試行錯誤できるのであれば、「しかと」で他人を苦しませるということ自体が存在できなくなる。(Japanese Edition) (p.180). Kindle 版.
たとえば、大学の教室では、だれかが「しかと」をしようとしても、それが行為として成立しない。何やら自分を苦しめたいらしい疎遠なふるまいをする者には魅力を感じないので、他の友ともっと美しいつきあいをする、という単純明快な選択を行うだけですべてが解決する。 (Japanese Edition) (p.180). Kindle 版.
座る位置がフリーアドレスならなお良さそう。
ただ、学生ではなく社会人になると「嫌いな人と無理にでも関わらなければならない」場合はあるように思う。
学校の「逃げられる」環境下で育った人が、いきなり社会に出て「逃げられない」環境に放り込まれたとしたら、果たしてその環境を生き抜いていけるのだろうか。
「逃げられない」環境で生き抜くことを強いる「社会」の方が悪いと、ただそう言ってしまえば解決することだろうか。